クライミングをしていて笑うことはあっても泣くことは多くない.
人はどんな時に涙を流すのだろうか.嬉しいとき,悲しいとき,悔しいとき,怒ったときなどが思い浮かぶ.ただ忘れてはならない涙がもう一つだけある.それは人の根源的な感情である恐怖によるものだ.
瑞牆の十一面岩末端壁にある”泣きっ面”はかつてその攻略を未来に託された.とはいえギアやテクニックなど様々なものが進化した今日でもその壁を登ることは容易ではない.泣き出しそうになるくらい怖い.それでもその恐怖にぐっと耐え,この壁を登り切ったときにはきっと笑顔になれる.そんなルートだ.
未来に託された壁
瑞牆にある十一面岩末端壁は日本のトラッドクライミングの歴史を語るには外せない岩場であり,1980年代のクライミング黎明期には春うららやアストロドーム,トワイライトをはじめとする数多くの素晴らしクラックが登られた.今なお瑞牆でクラックの修練をするとなると末端壁に通うクライマーは多い.

この末端壁はそういった背景から,公言はされていないもののルートを開拓するときにボルトを打たないことは暗黙の了解とされており,ナチュラルプロテクションの取れないフェイス部分に関しては余白が多い.それでも良質なクラックが多く発達しているこの壁においてこの余白はほどよいアクセントでしかなく,わざわざフェイスを登ろうとする変わり者は少ない.
その中でひときわ目立つ余白がT&Tの左にある前傾壁だ.フレークやポケット,カンテなどぱっと見て弱点となるようなものは豊富にあるが,先の理由でボルトも打てないためリードクライミングの対象としては見られなかった.

だが末端壁が開拓されてからおよそ四半世紀,先人たちが岩を傷つけることなく未来の可能性に託したこの壁は杉野保氏によって攻略された.もちろんオールナチュラルプロテクションで,1本のボルトも打つことなく.そうして生み出されたのが”泣きっ面”というルートだ.
点と線,面,そして空間のクライミング
クライミングはいろいろな分け方・捉え方ができるが,一つの方法として幾何学的にとらえることもできると思う.これに関しては完全に筆者固有の感覚的なものであり同意が得られないかもしれない.

例えばクラックは典型的な”線”のクライミングだ.ジャミングのききの良し悪しはあるがそれは手のサイズによって変わる.極端な話,線の上であればどこでもホールドとなりうる.
四方八方にホールドが散らばっている城ヶ崎の3Dクラックなんかは”空間”のクライミングだし,スラブは”面”のクライミングだと思う.

フェイスクライミングは”点”のクライミングであることが多い気がする.岩面に散らばったホールドという複数の点の間に自分を当てはめていく作業をすることが多い.
ここでいう点,線,面,空間はいずれも同質のものではないし共存することもある半端なものだが,この考え方は自分なりに抽象的にルートをとらえるのには役になっている.
そんなことを思いながら泣きっ面を眺めた.
弱点散らばる前傾壁
先の考えでいうと泣きっ面は”点”のクライミングだ.この壁には遠目に見ても弱点とわかるようなフレークやポケットが散在している.これらの点を結んで岩壁のピークを目指す.おまけにボルトが1本も打たれていないこのルートにおいては,これらの弱点はホールドであると同時にプロテクションを設置する重要なポイントともなる.

アプローチであるT&Tはクラッククライミングだが,泣きっ面のオリジナルパートは完全なフェイスクライミングだ.一般的なフェイスクライミングと違ってボルトがないので描くラインの自由度は高い.ボルトを追って登っていくのではなくホールドを目指して登っていくという新鮮な体験ができる.
”R”
このルートには一般的なデシマルグレードのほかに形容詞グレードの一つである”R”がついている.瑞牆クライミングガイドによるとこの”R”の意味は
墜落した場合は大怪我をする可能性が高い
ということらしい.字面を見ただけでも漏らしそうだ.
泣きっ面を登るときに普通のメンタルであれば5か所程度のプロテクションを設置することになる.オンサイトトライの邪魔にならない程度にこのプロテクションを設置する箇所を簡単に説明すると以下のようになる.
- 割れそうなフレーク
- 浅いフレークに上から
- すわりの悪いポケットに横向きで
- 下向きポケットに下から
- フレークに下向きで
わかっていただけただろうか.まさに”R”だ.初登者の言葉を借りると
体重をかけてないからわからないが、どれも本当に大丈夫なのかというシロモノであった。
CLIFFより(https://cliff.climbing-instructor.jp/topics/topics2007.htm)
ということだ.
安易な墜落が許されないということは当然精神的にも追い込まれる.特にT&Tのクラックには離れる前に固め取りができるものだからオリジナルパート中盤に来る核心に入る前は”今ならまだ辞められる”,”今ならまだ安全に帰ることができる”という気持ちが襲い掛かってくる.
この弱い心に打ち勝ち快適な空間から一歩踏み出せるかがこのルート攻略のカギとなるのはいうまでもない.長きに渡って洗練され続けてきたカミングデバイスと自身が積み上げてきたものを心のよりどころに一手ずつ進めていく.そんな最中に顔を見られようものならまさにルート名通りの表情をしていることだろう.

泣きっ面というが実際は涙なんて流れない
とはいえ数十年生きてきて精神的に安定したのか,あるいは感情の起伏が乏しくなったのか,泣きそうになることはあっても実際に涙がでることはそう多くはない.クライミングのシーンにおいて泣いたことなんてほとんどない.
ところで,アストロドームやトワイライト,ペガサス,T&Tなど末端壁のルートの多くはうすく被っている.一見垂直に見えるこの壁も実は同じようにけっこう前傾しているのだ.5.12cというグレードにはムーブの難しさだけではなく,ストレニュアスさも含まれているのだろう.

それゆえか雨が降ってもこの壁は濡れていないことも多い.実際に筆者がトライした3日間のうち2日間は雨の中のトライとなったが何の問題もなかった.この前傾した壁には雨水は流れない.たとえ涙を流したってこの壁には流れていかない.ドライな壁なのだ.
泣きっ面のあとには笑いっ面
日本には「泣きっ面に蜂」という言葉がある.困っているところにさらに追い打ちをかけるように悪いことが重なることのたとえである.
このルートは一歩間違えれば蜂に刺される程度では済まないかもしれない.けれども無事に最後まで登り切ったその時は泣きっ面だった表情は笑いっ面に変わっていることだろう.







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