一目見た瞬間心を奪われる.世の中にはそんなルートが存在する.私にとってそれは「Separate Reality(セパレート・リアリティ)」であった.
2023年4月,偶然にも友人から誘われた私は瞬時に意思を固め若干の予定調整を行った後,このルートを登るためにヨセミテに向かった.
目次
世界一有名なルーフクラック
人類は本能的に高いところを怖がる.不思議なことにそんな恐怖心に相反するような高い所への好奇心も有している.そうしてクライミングの歴史ははじまり最初はスラブや垂壁などを登るようになった.さらに歴史は進み前傾壁やハングに挑戦するクライマーも出現し,いつしか人類はルーフを登るようになっていた.
日本語で「屋根」と訳されるルーフを登るためには弱点を突く必要があるが,その弱点の筆頭となるのがクラックである.つまり一見難易度が高いと思われるルーフクラックというのは,その壁(屋根)の中で最も簡単に登ることができるラインなのだ.そんなルーフクラックの中で世界一有名といっても過言ではないルートが”Separate Reality”だろう.
(前略)~おそらく世界で最も有名なルーフクラック。~(中略)~私がヨセミテに行くきっかけとなったルート。
魅惑のトラッド Yosemite編(https://cliff.climbing-instructor.jp/area/trad.htm) 杉野保
Separate Realityは多くのクライマーにトラッドクライミングの聖地であるヨセミテに行くきっかけを与えている.それほどの魅力を内包しているルートだ.筆者自身,今のところ決して長くないクライミング人生だが後にも先にも登ったとき涙がでてきのはこのルートだけだ.
トラッドクライミングの聖地「yosemite/ヨセミテ」
クライマーなら,いやクライマーでなくても「ヨセミテ」という名前は聞いたことがあるだろう.アメリカ合衆国にある有名な国立公園で日本からも多くの観光客が訪れている.マーセド川沿いに巨大な岩壁が並び,森の中には多様な植物や動物が生きている.トレッキングなんかも人気が高い.そんな賑わう観光地だがクライマーにとってはその意味合いが違ってくる.
カムやナッツなどリムーバブルプロテクションを使って登る登攀をトラッドクライミングというが,これは「traditional(伝統的な) climbing」を短くしたものだ.ヨセミテはこのトラッドクライミングの発祥の地と言われている.当時としては最新なもので決して「伝統的な」ものではなかったはずだが,ボルトを使用するスポートクライミングが隆盛を極める昨今では「伝統的な」という言い方がしっくりくるかもしれない.
とはいえそんな伝統的なクライミングの聖地であるヨセミテが古めかしいものかというとそんなことはなく,近代的なクライミングにも負けないような素晴らしい,あるいは超人的な記録が近年でも誕生している.平山ユージのサラテオンサイトトライ然り,ノーズのスピードアッセント然り,ドーンウォール開拓然り,アレックスオーノルドのフリーソロ然りだ.現代においても多くのクライマーを魅了し続ける,そんなクライミングエリアがヨセミテだ.
A Separate Reality: Further Conversations With Don Juan
話をSeparate Realityに戻そう.Separate Realityはヨセミテ国立公園内にはあるが,厳密にいうとヨセミテ渓谷内にはない.ヨセミテ渓谷から車で15分ほど離れたマーセド川沿いの岩壁にあるAbove the Cookieと呼ばれるエリアにある.
Separate Realityは対岸からでもよくわかる.巨大な岩壁の中に1ルームマンションの1室ほどの空間がぽっかりと開いている.今からおよそ50年前の1978年,Ron Kaukによって初めて登られた.このルートを見つけ初登するという慧眼と技術と勇気には頭が下がるが,さらに驚くことに初登時にはカムは使用していないらしい.だが,このRon Kaukという男は日本に現代クライミングを持ち込むきっかけになったボルダー,Midnight Lightningも初登していると考えるとある程度は納得がいく.いわゆるレジェンドだ.
このSeparate Realityという名前は日本人にはあまりなじみはないがアメリカにおいてはそれなりに有名らしい.20世紀の作家・人類学者であるカルロス・カスタネダによって執筆されたドン・ファンシリーズ初期4部作の第2巻「A Separate Reality: Further Conversations With Don Juan」に由来すると思われる.このドン・ファンシリーズには他に「Tales of power」や「イクストランへの旅」といった有名ルートの由来になっていると思われるタイトルがあるから興味深い.
カスタネダの著書は日本語訳されたものもあるが内容が非常に難しく筆者は手元にこそあるがまだ読めていない.内容としては「呪術師ドン・ファンとの哲学的な対話や薬草を用いた意識の変容体験等が、社会学や人類学のフィールドワークを下敷きにした、生き生きとしたルポルタージュの様式によって描かれている。(wikipediaより引用)」ものらしい.興味があれば一読していただきたい.そして内容を教えていただきたい.
分離したリアリティ ~180°の世界へ~
そんな世界と分離した現実には懸垂下降で行く必要がある.道路わきから踏み跡をたどりオークの木を目印に20mほど下降すると件のテラスにただりつく.若干外形しているもののなぜか居心地がいい.当然のことながらルートには日が当たらない.そんな雰囲気も相まって本当に世界から分離した場所に来たような錯覚に陥る.
上を見ると世界一有名なルーフクラックがそこに待っている.テラスからつながる一筋のクラックを見るだけでうっとりする.その先はどこにつながっているのか.
登りだすとプロテクションを1個2個設置する間にルーフに突き当たる.ここからは快適なハンドクラックが続く.壁の中の動きというのは独特だが,ルーフの中の動きというのはさらに輪をかける.慣れていないと苦労するだろう.
屋根の中の道を進んでいくと最後には元々いた世界に戻ることになる.リップをとり逆さまの世界からの脱出を試みる.名残惜しいが仕方がない.地に足をつけて立ち上がると登り始めてから10分も経っていないことに気がつく.束の間の異世界旅行.あまり長くはいられない.それもまた魅力のひとつ.
とはいえテラスにはいろいろと忘れ物があるので取りに戻らねばならない.ヨセミテの絶景を堪能しながら再度分離した世界に入り最後は味気ないがユマールで帰っていく.
Epilogue
世の中には数多のルートがあるが,その中でも特別な,そしてひときわ輝きを放つルートがある.Separate Realityは私を猛烈に引き付けた.一目見た瞬間心を奪われ,対峙して魅了され,登って胸を打たれた.そして思い出してなお感慨にふけることができる.だがそれはきっと私だけではない.多くの人にとってこのルートが特別なものであってほしいと願う.そして,この1本を登るためだけにヨセミテに行った私が断言する,その価値は十分にあると.
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