人には誰でも自分を大きく見せようとする心理がある.自分はそれがひとよりも強いかもしれないと思ったことがある.だから本当は敗退の記録なんか書きたくない.うまくいったことだけを書いておきたい.
でも,山の成功なんてものは実力以上に運の占める要素が大きい.そんな偽りの成功体験だけを積み重ねていっても本当の成長はできない.そんな風にも思うため,戒めとしてここに今回の山行の記録を残しておきたい.
槍ヶ岳西稜
日本三大岩壁というと剱岳,穂高連峰,谷川岳の3つであり日本第5の高峰である槍ヶ岳は含まれない.日本随一の山であることは言わずもがなであるが,むしろそのすっきりとした山容ゆえに岩壁を持たない.かといって槍ヶ岳にバリエーションルートがないかというとそんなことはなく北鎌尾根は日本を代表するルートである.だが北鎌尾根は歩きが主体でクライミングかといわれると全面的な同意はやや憚られる.
そんな槍ヶ岳にある数少ないクライミングのルートが西稜だ.

槍ヶ岳西稜は,見栄えのする小槍の登攀,10ピッチにも及ぶスケール,そして何より槍の穂先を終了点とする爽快感など他のクラシックルートにも負けない魅力を持ち多くのクライマーを引き付ける.
概要
日程 2025年3月29日,30日
天候 3月29日 霧,30日 雪

コースタイム
3月29日
新穂高(0527)-穂高平(0628)-白出沢(0747)-滝谷出合(0942)-槍平(1153)-T.S.(1630)
3月30日
T.S.(0437)-飛騨乗越(0628)-槍ヶ岳山荘(0649-0758)-T.S.(0855-0952)-槍平(1032)-滝谷出合(1059)-白出沢(1211)-穂高平(1307)新穂高(1350)
装備(登攀具)
ダブルロープ(50m×2),キャメロット(#0.3~0.5×2,0.75~3×1),トライカム(0.5,1,1.5,2),ナッツ小×1,アルパインヌンチャク適量,ハーケン,捨て縄,土嚢袋,etc
詳細
背景
いくらかの冬山と冬期クライミングの経験を経て大きな山でクライミングをしたいと思うようになった.この日本においては候補となるような山はそんなに多くない.穂高,劔,北岳,甲斐駒,鹿島槍,笠,そして槍ヶ岳だ.その中でもそれなりに情報があり,雪崩などの外的リスクが比較的低く,そして何より心を奪われたのが槍ヶ岳西稜だった.
それまでも冬期クライミングはしていたが,昨シーズンから特に夢中になり主には錫杖に足しげく通った.この冬は冬壁どっぷりというわけではなかったが,フリーや山スキー,アイス,家のことなども挟みながらいくつかの山の計画を立てた.
最初の計画は北岳バットレスだ.こちらは無事に(?)登ることができ,ひとつ自信になった.もう一つが滝谷.こちらは2回計画を立てたが天候などを鑑みて当日を迎えることなく断念した.そして3つめが槍ヶ岳西稜だ.
槍ヶ岳西稜は2年ほど前に無雪期にも行っており核心部の「くの字」ジェードルは濡れていてクライミングシューズでも苦労した記憶がある.それでもこの2年間は濃い時間を過ごしてきた.クライマーとしても多少なりとも成長しているはずだ.今ならアイゼン・アックスを使ってのクライミングでも勝負にはなる可能性はあると思っていた.

そんな西稜への思いを抱きながら迎えた2025年1月の終わりに数年前から知っているTさんからラインがきた.
「錫杖の注文をやりたいんですがどうですか?」
冬の注文といえば,無雪期に開拓されたクラック主体の名ルートをあえてアイゼン・アックスで登るという少し変わった人しかやらないやつだ.この文面を見たときに自分の中でTさんは”冬壁パートナー候補”のフォルダに収納された.そもそも2年ほど前に「冬のバットレスをやらないか?」という話も浮上したくらいの人だ.冬壁のパートナーとしては申し分ない.残念ながら注文は日程が合わず行けなかったが,数日後にこの機を逃してなるものかと言わんばかりに槍ヶ岳西稜のオファーをしたところ二つ返事でYESの返事をもらえた.そうして今回の計画が始まった.
3/29
初日である3/29は槍ヶ岳山荘までの入山日.1日で標高2000mほどをあげる必要がありまた水平距離も長い.西稜の登攀以上に核心といえる1日だった.
Tさんは前日も休みだったため前日に移動,自分は仕事が終わってからすぐさま寝て日をまたぐころに起床し当日朝移動で新穂高に朝4時に集合した.4時間ほどの睡眠を確保.新穂高に向かうまでの道のりは珍しく霧が立ちこみ視界は悪く,到着した駐車場では雨だか雪だかよくわからないものが降っていた.都合があわず事前に一緒に登ることができなかった.直接会うのは久々だ.軽く挨拶をかわしお互い準備を始める.
思いのほか準備に時間がかかり出発したのは1時間以上経ってからだった.まずは白出沢出合までの長い長い林道を歩く.トイレで待っている間に1パーティ先行していったがその他の入山者は今のところいなさそうだ.
新穂高付近は雪こそ降っている者の気温は高く積雪はない.林道に入り少ししたところでようやく雪が出始める.だが気温も高く水分を多く含んだ雪だ.トレースはあるものの一歩ごとに軽く踏み抜きたかが林道歩きといえどそれなりに消耗する.穂高平へのショートカットは積雪量が多く夏道がはっきりせず穂高平直下の斜面を直上することになった.一応コースタイム通りで到着することができた.

次の目的地は白出沢出合だが,ここまであった先行者のトレースはどうやら西穂西尾根方面に向かっているようで続く林道については古いトレースのようなものしかない.ほとんど傾斜のない林道を黙々と歩くやはり一歩一歩踏み抜きがあり疲れる.白出沢までもやはり1時間ほどで到着しここまではかろうじてコースタイム通りだ.トレースがあるといえど重い荷物を背負った状況なので及第点.
大変なのはここからだった.白出沢からは登山道になるのだがルートがいまいち判然としない.ピンクテープとトレースらしきものを追いかけながら質の悪い雪の斜面のトラバースを越えていく.途中のブドウ谷,チビ谷など大きい沢筋ではしっかりとデブリがたまっていた.硬いデブリと腐った雪を交互に歩いているうちに体力はどんどん消耗されていった.結局2時間近くの時間をかけて滝谷に到着した.


滝谷についたら遠くの岩壁を眺め将来の登攀意欲を高めることで気持ちをリフレッシュできるかと期待していたが,気温のせいか辺りは霧に覆われ視界は極めて悪く気分はいまいち盛り上がらなかった.そんないまいちな気持ちで休憩していると後続がやってきた.同じく槍ヶ岳山荘を目指すらしい女性が一人.彼女も大きな荷物を背負ってはいるが,軽く挨拶を交わしただけで休憩も取らずにそのまま進んでいくとあっというまに視界から消えていった.世の中には強い山屋はいくらでもいるなと改めて思った.
そこからいくばくかの休憩をとり再び歩き始める.滝谷から先は少し進むと沢筋に入り進むことになるがこれまでの樹林帯とはことなり開けた沢は雪が多い.おまけに微妙にモナカな雪で一歩一歩踏み抜くのがうっとおしい.通常のラッセルよりも労力を伴う.わかんを置いてきてしまったのが悔やまれる.
槍平につく頃には昼近くになっておりコースタイムからははるかに後れを取るようになっていた.そしてようやく槍平でこの日の行程の半分だ.先には絶望しか待っていなかった.ルート自体は難しくないし天気もそこまで悪くもないので,暗くなっても歩き続ければいつかは槍ヶ岳山荘につくだろうという目算だった.だが重い荷物と睡眠不足,汗濡れとうっとおしい踏み抜きなどによって奪われていった体力の方が持つか不安になってきた.それでも明日のことを考えると槍平避難小屋で本日の行程を終了とする若にはいかなかった.覚悟を決め牛歩のごとき歩みを再開する.

そこからも踏み抜きと戦い続け次の目的地である千丈沢分岐までなかなかたどり着かない.ラッセルに加え,水平距離の長さもあって400mの標高をあげるのに4時間かかった.時間は16時を回っておりそろそろ本格的にこの後のことを考えねばならない.残る標高差は500mほど.元気な時であれば1-2時間ほどで登り切れる標高差だが今の状況だととてもじゃない.少なくとも3時間,もしかしたらたどり着けない可能性だってある.そんなことをパートナーと相談した結果,残りの行程は翌日に持ち越し幕営の準備にとりかかることにした.とはいえここはもうすでに雪崩の巣,飛騨沢の中だ.幕営場所は慎重に選ぶ必要がある.辺りを見回し少しでもリスクが低いと思われた立ち木の下で一夜を過ごすことにした.

本当に長い一日だった.行動時間は11時間.同じ冬山でもクライミングありの10時間越えはそこまで大変じゃないが単純なアプローチでのこの時間は本当に大変だった.と,同時にクライミングだけではなくしっかりと山歩きもしないといけないなと痛感した.
ちなみに夕食は尾西の白米に札幌一番塩ラーメンを半分いれたラーメンライスにしたがスープの素が少なすぎて全然おいしくなかった.紅茶,卵スープ,レモネード,チャイティーなどたっぷりの水分をとって翌日に備えるべく早めに就寝した.
3/30
2日目は西稜へのアタック日.本来は日の出とともに行動を開始する予定であったが,前日の宿題である槍ヶ岳山荘までの500mがまだ残っていたため3時起床.この時期にしては寒すぎる暗闇の中歩き出す.前日の腐った雪が嘘のように締まっており気持ちよくアイゼンを効かせて標高をあげることができる.暗闇と吹雪で視界不良の中,飛騨乗越までの単調な道のりを進む.あれ?吹雪?

そう,この日の天気は吹雪だった.標高をあげるにつれ風は強くなり飛騨乗越まであがると目も開けていられないような強風になっていた.着こんでいるのに寒さを感じるし,指先は2月に凍傷になったところがじんじんと痛む.槍ヶ岳山荘までの短い登りを登っている最中に考えていることは,もはや西稜の登攀ではなく一秒でも早く避難小屋へ逃げ込むことだった.

風にあおられながら満身創痍で避難小屋に入り込むと,さすがに風はよけられ一息つける.わきの下に挟んだ指先はしばらくすると感覚が戻ってきて一安心だ.取り急ぎ防寒着を着込み,水分と栄養を補給する.さて,これからどうしたものか.少なくともこの強風の中登攀する実力は持ち合わせていない.一応予報だと時間が遅くなるにつれ風は弱まりそうだったのでしばらく待ってみることにした.
土間に座り込み天候の回復を待つ.とはいえ,ここは標高3000mで外の気温はマイナス20度近い.動かないでいると10分もしないうちにどんどん寒くなりロープを尻に敷きザックに足を突っ込みツエルトを被る.まるでビバークだ.見る見るうちに身も心も削られていく.小一時間そんな状況を続けたが天気に関しては一向に回復する兆しはない.いくばくかの議論を重ねいくつかの選択肢が上がったものの,最終的に寒さにやられた二人は撤退を決意した.

そうと決まれば善は急げだ.すぐに下山の準備をし後ろ髪を引かれながらも槍ヶ岳山荘を後にする.天候に関してはむしろ悪くなっていたので好判断だったかもしれない,と自分に言い訳をしながら.

どんな時も下山はスムーズだ.吹雪で視界が悪い中,トレースだよりにテントまで下る.よかった.テントは無事だ.速やかに撤収し槍平そして滝谷まで一気に下ると登りで6時間かかった行程をたったの1時間で下ることができた.白出沢までのトラバースは相変わらず嫌らしいが残りの行程も短いので気が楽だ.この辺まで下ってくると雪も緩んできて多少の踏み抜きはあるが単調な林道歩きで新穂高まで心を無にして歩く.やっぱり後ろ髪を引かれる思いもあったが,また機会もあるさ,と自分にいいきかせもはや遥か遠くになってしまった槍ヶ岳に別れを告げていつもの如く平湯の森へ向かうのだった.
総括
この冬の目標のひとつであったが残念ながら敗退した.とはいえ最近は事前の予報をみて「やめておこうか」という敗退が多かったため,予報の怪しさはあるものの現地まで行って判断できたのは多少はよかった.
錫杖などある程度天気が悪くても登れるようなエリアでクライミングを楽しむのもよいが,やはりたまには大きな山にいかないといけないなと改めて思った.こういう大きな山でクライミングをするには,クライミング以外にも歩く力や悪天候でも動く力など山の総合力というものが必要なんだと思った.たぶん今回の天候でも総合力があるパーティーであれば取付いているんだろうな.
今シーズンはバットレス,滝谷,槍西稜と3つのビッグルートを目標にしていたが達成できたのはひとつだけ.「なんだかなー」という気持ちもあるが,また機会はあるさ,と自分を慰めつつ春山何しようか考えている.
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