ルーフクラックに魅せられたのはいつからだろか.
気がついたらルーフクラックばかりを探していた時期があった.このルートはその時に見つけたもののひとつだ.そして初めて出会ってから完登に至るまで3年を要した.
3年という歳月は特段長いものではないがクライミングの嗜好が変わるには十分な期間だ.それでも常に頭の片隅にはこのルートの居場所があった.
釣り師のテラスのルーフクラック
三重県熊野市の二木島湾には楯ヶ崎と呼ばれる景勝地がある.この楯ヶ崎は高さ約80m,周囲550mほどの岩塊であり柱状節理が発達している.そんな岩場をクライマーが目を付けないわけはなくエリア自体は40年ほど前から開拓されている.最近だとジャミング紳士夫妻らによるヨセミテエリアの開拓が有名だ.

釣り師のテラスのルーフクラックと呼ばれるルートはこの楯ヶ崎にある.
ルートの名前からその内容が想像できるルートは沢山あるが,このルートほど”名は体を表す”という言葉がふさわしいものはないだろう.
楯ヶ崎は周囲を海に囲まれており漁場としても人気が高くクライマーだけではなく釣り師も集まるのだが,このルートは『釣り師』がよく訪れる『テラス』にある『ルーフクラック』なのだ.
このルートは壁の端からルーフクラックが7mほど続く.ルーフまがいの前傾壁ではなく完全なルーフだ.そしてそのルーフを抜けてからは7-8mほどのハイボルダーが待ち構えている.初登から9年ほどのときを経てそのグレードは三段に落ち着いている.

概要
このルートに最初に目を付けたのは2023年のことだ.その時は2回ほど通ったが完登することなくシーズンを終えた.シーズンをまたぐと熱量は失われ,興味の矛先は別のルートや冬山に向かうことになる.結局再びこのルートに向き合うのは2025年も終わりかけになってのことだった.
日程 2023年2月25日午後,3月6日午前,2025年12月30日
- 2023年2月25日/天気:晴れ パートナー:K氏
- 2023年3月6日/天気:晴れ パートナー:K氏
- 2025年12月30日/天気:晴れ パートナー:なし
詳細
釣り師のテラスのルーフクラックとは3年ほどの付き合いになる.何回も何回も通ったというわけではないが,それなりに長い期間なので月並みの歴史はある.少々長くなるが記録がてら記載していく.
Separate Reality強化合宿|2023年2-3月
2023年1月にのちにヨセミテのパートナーとなるK氏から連絡がきた.
「ヨセミテ気になってませんか?」
二つ返事で「行きます!」とはならなかったが,10日ほどで休みの都合をつけヨセミテ行きが決定した.筆者を最もヨセミテに駆り立てたのは世界で最も有名なルーフクラックである”Separate Reality”だった.おそらく杉野保氏の魅惑のトラッドだと思うが,Webで初めてその画像を見たときに仰天した.そこから心の中にはいつもSeparate Realityの部屋があった.

ヨセミテには魅力的なルートが山ほどある.その中でもこのときの遠征ではSeparate Reality1本に狙いを定めた.しかしながら当時はルーフクラックの経験なんて皆無に等しい.かろうじてマリオネットを登っていたくらいだ.完登には当然それに向けたトレーニングが必要になる.そこで出発までのおよそ3か月間,できるだけたくさんのルーフクラックを触ろうという方針となった.こうして打倒Separate Realityのトレーニングが始まった.
その時に白羽の矢が立ったのが城ヶ崎であり,桐生辻の雄鹿であり,そして釣り師のテラスのルーフクラックであった.
会合
なにせ3年も前のことなので記憶は大分薄れている.筆者のXを振り返ってみるとメモ程度だが記録が残っていたので,その記録を頼りに記憶を探ってみる.
事前に動画を見てからのトライだったように思う.完登動画をみるとみんなそんなに難しくなさそうに登っているし,ハンドジャムがきまるということだったので「さくっと登れちゃうんじゃないの?」くらいに思っていたのだろう.現在はこの課題は三段とグレーディングされているが普通に考えたら簡単に登れるわけがない.しっかりと返り討ちにされている.
この日は午前中に楯ヶ崎クラシックでルーフクラックでもあるimpressionを登りそのあとに釣り師を触った.短い時間ではあったが初めてさわる前傾ではない純粋なルーフクラックはとても新鮮で一気に魅了された.
2回目のトライも半日だった.たまたま熊野方面で用事がありその道中に午前中だけ触った.
この課題は3つのパートに分けられるが,そのうち核心となるのはルーフ部分の後半にあたる2つ目のパートだ.第1,第3パートはそれなりに再現性のあるムーブを組み立てることができたが,この部分の攻略は悩まされた.当時はデッドでのシンハンドをきめることで精度は低いもののいちおうのバラしは終わった.だがあまりにも時間をかけすぎた.つなげトライをする時間も気力も残っていなかった.
ヨセミテに向けてこの課題ばかりに打ち込むわけにも行かず,あっという間にシーズンは終わった.このルート含めさまざまなルーフクラックを経験した成果としてSeparate Realityを無事登れたのはまた別の話.

失われた熱量
結局この課題を再び触るのは2025年12月になってからのことだった.その間に2回のシーズンをまたいだのだが,2023-24年,2024-25年のシーズンには冬壁に夢中となり思い出すこともなかった.
筆者はどちらかと言うと1つの課題にのめり込み登れるまで通うタイプなのだが,このルーフクラックについては不思議とバラしまで終わっているのに通うことはなかった.
もしかしたらその理由の1つに3つ目のパートが関係しているかもしれない.前述の通りこの課題の核心は2つ目のパートだ.だが精神的な核心は第3パートとも言える.このパートは実は7mほどのハイボールで,前半は易しいものの後半には2度の緊張するマントルが控えている.ボルダー経験の乏しかった当時の自分にはムーブこそ解決しているもののこのパートを無事にこなせるイメージが全くわかなかったのだ.
2025年最後のクライミング|2025年12月30日
そんなわけですっかりと頭の片隅へと追いやられた釣り師のテラスのルーフクラックだが,3年の歳月を経て再び日の目を浴びることになる.
それまで99%がリードクライミングであった筆者だが,クライミングの幅を広げるべく2024年冬頃からボルダリングにも興味を持ち始める.近場の豊田・恵那からはじまり,次第に行動範囲を広げていきボルダーをやるために秋に小川山・瑞牆に行くことさえあった.

そうして迎えた2025年の冬シーズン,いくつか掲げる目標のひとつにこのルートの名が連なるのはあるいは必然だったのかもしれない.
再会
2025年12月30日,筆者はひとりで尾鷲を訪れた.もちろん釣り師のテラスのルーフクラックを登るためだ.
記憶よりも長いアプローチをこなし,海岸線に出るとぱっと視界が開ける.このエリアの柱状節理は近年開拓されているそれらと比べるとやや小ぶりだ.それでもボルダーと言うには大きく十分ハイボールの範疇にはいるだろう.
記憶を頼りに釣り師のテラスを探すと,美しい柱状節理のテラスの中には異質な人工的な階段がある.ここだここだと思い数段降りると広いテラスに出るが海面まではまだだいぶあるし,記憶の中の風景とはやや異なる.頭の中にはクエスチョンマークが浮かぶ.ふと辺りを見渡してみるともう一つ階段をみつけた.まさかと思いテラスから下をのぞき込んでみると,階段で言うと10段は下らないだろう,はるか下方に記憶とは寸分たがわぬ件のテラスが「遅かったな」と言わんばかりに坐していた.

「こんなに高かったけ・・・」
と思わず呟いていた.
尾鷲の苦い思い出
楯ヶ崎を訪れるのはおよそ3年ぶりだが,実は2024年の3月にも尾鷲を訪れたことがある.その際にはハイボールのルーフクラックに無謀な挑戦をしてあげく危うく人生敗退となるところだった.第五中足骨骨折という怪我を負いしばしの戦線離脱を余儀なくされた.

尾鷲,ソロ,ハイボルダー,ルーフクラック..
苦い思い出が嫌でもよみがえる.ルーフ自体は高さ1mにも満たないが後半は目算7-8mほどの高さがあるハイボルダーだ.落ちればただでは済まないことは容易に想像がつく.
今回は前回の同じ轍を踏まないぞ,そう自分に言い聞かせ準備をはじめる.
妥協の産物
釣り師のテラスのルーフクラックはボルダーの課題であるが,念のためロープとギア諸々はもっていった.もしかしたらロープでのムーブ練習をするかもしれないと思ったからだ.
リードクライミングであれば場合によってトップロープは許容されるだろう.だが「ボルダーでロープ練習というのはどうなのか?」,「そんなスタイルで登れてうれしいのか?」,「フロンティアスピリッツとは?」,そんな申し訳程度の葛藤をしたのちにそそくさとフィックスロープを張りアッセンダーをセットする.今は登りきることを優先するんだ,自分にそう言い訳をしてムーブの確認を始める.
ハイボルダーといってもルーフクラックからつながるクラック自体は易しい.そこからやや右にトラバースして狭めのテラスに上がる.ここが露出感があって怖い.テラスに上がってから2mほど登りマントルを返してさらに広大なテラスに這い上がる.ここも怖い.

ロープ練習をしながら,シケシケのホールドやぽろぽろかけていくフェイスなど自分の言い訳を正当化する理由を探す.ムーブがきまってからも2回ほど通しで練習し安心できたのでいよいよ本命のルーフ部分の練習に入ることにした.
BA・RA・SHI
ルーフ部分は2つのパートにわけられる.
前半はハンドクラックがつながっており気持ちよく進んでいくことができる.ワイドハンド気味ではあるものの,中間部のレストポイントまではそれほど難しくない.3年前にトライしたときもこのパートの再現性は高かった.今回も数トライのムーブ確認は要したが苦労せずにつながった.

後半のパートはこの課題を通しての核心であり,クラックはフレアしているためジャミングはきかせられない.だがこれを使えとばかりにピンチホールドがあり,これをデッドでとりにいきマッチする一連のムーブが難しい.ルーフの抜け口もホールドはよいがパワフルであり疲れた体には厳しい.
3年前はピンチが保持できずフレアクラックにシンハンドを決めることでムーブを作ることができたが再現性は低かった.今回も同様のムーブで組み立てたが,やはりなかなかうまくいかない.そこで一度は断念したピンチを試してみると,3年の歳月でフィジカルが強くなったのか,体の使い方がうまくなったのかわりかししっくりときた.
ここまで来たらもう引き返せない
前回の下地もあってか2時間ほどでムーブのバラしは終わり,いよいよつなげトライをすることにした.とはいっても7mものルーフを続けると当然疲労は蓄積するのでどうせつながらないだろう,つながらなければハイボールはやらなくてすむな!という考えが頭の中にはあった.だが幸か不幸かその愚かな期待は裏切られることになるのだった.
それまではヌメっていた核心のピンチも,入念なチョークアップが功を奏して無事に抑えることができた.もしかしたら事前にバーチカルリミットを含むSASUKEの動画を山ほど見ていたのがよかったのかもしれない.丁寧に足を決めリップをデッドで繰り出した先にリップをとらえた.ここからは重力のかかり方が変わる.中空にぶら下がる右足を壁の中に納めるとようやく一息つくことができる.

到底つながらないだろうと思っていたルーフ部分がつながった,つながってしまった.ルーフ部分の練習だけをするつもりだったのでハイボールの下にはマットがない.というかそもそもマット1枚では全く意味のない高さだ.安全のためにここで降りることも頭をよぎったが自分の中のクライマー魂が一瞬でそれを拒否した.そうだ,俺は登るためにここに来ているんだ.
しっかりと呼吸を整えさっきまでとは違い今度は上に進む.最後のレストポイントでしつこいくらいシェイクをしながらムーブを思い描く.2度のマントルも決して難しいムーブではない.慎重にこなせば落ちることはない.よし登れる,覚悟を決めて安全圏から飛びだした.
練習した通りのムーブでテラスに上がり今度こそ正真正銘最後のレストをする.そうして呼吸が整ったら大テラスまで這い上がる.ムーブも何もない.おそらくクライミングが生まれる太古の昔から行われていたであろう腹ばいによるずり上がりだ.登りきった.
テラスからみる景色
筆者はトップアウトしたときに広いテラスがあって座れる,あるいは寝っ転がれるルートが好きだ.せっかく高いところに登るのだから一息ついてゆっくりと景色を堪能したい.当然のことながらクライミングをしている最中に景色を見る余裕はない.登り切って安定したところにたどり着いてようやく景色をみることができる.

楯ヶ崎の海は青い.いや楯ヶ崎に限らず海は青いのかもしれない.それでもその時は青いなぁと心の底から思った.
総括
釣り師のテラスのルーフクラックを登った.その名の通り『釣り師』がよく訪れる『テラス』にある『ルーフクラック』だ.でも実際にそこにあるのはただの岩だ.物語を作るのは我々クライマーなのだ.もしかしたら強い人からみれば大して難しい課題ではないのかもしれない.けれどもこの岩は間違いなく自分の中にひとつの物語を刻み込んだ.







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